「アサクリ問題」の黒幕とされるトーマス・ロックリーさん。
Wikipediaで意図的に日本の歴史を改変し、それを引用した小説を発表。
小説をもとにフランスで作られたゲーム「アサシンクリードシャドウズ」が、日本の史実を無視した内容であると話題になっています。
黒幕「鳥取のトム・クルーズ」ともいわれるイケメン大学准教授トーマス・ロックリーさんとは何者なのでしょうか。
「アサシン問題」まとめ
SNSで話題になっている「アサシン問題」とは何なのでしょうか?
問題となっている「アサシン」は、フランスで作られたゲーム「アサシンクリードシャドウズ」。
アサシンクリードシャドウズは「弥助」を主人公とし、日本の歴史の闇に隠された6000人の黒人奴隷を開放するゲームです。
弥助は、日本の歴史で「信長の荷物持ち」程度にしか考えられていなかった人物ですが、ゲーム内では「信長に仕えていた黒人」となっています。
これについて、ゲームの製作者はインタビューで「このゲームの舞台は日本の史実で、専門家のチェックもある」と表現。
※「専門家」が誰であるかは非公表
弥助は「日本でもっとも偉大な黒人侍」として世界に拡散されたことにより、日本で炎上。
日本で炎上したことに対し、フランスのゲーム開発会社UBIは「黒人差別だ」と非難しています。
黒幕はトーマス・ロックリー?
なぜ、「弥助」が「日本でもっとも偉大な黒人」というのが「史実」として海外で認識されてしまったのでしょうか?
それには、「弥助」に関するWikipediaの編集をしていた日大の大学准教授トーマス・ロックリーさんが関わっているようです。
トーマス・ロックリーさんは、2016年に織田信長に仕えた「弥助」に関する論文を発表。
2017年に、Wikipediaを引用した「歴史ノンフィクション小説」として、著書『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』を発行しています。
その裏で、2015年から英語版Wikipediaの「弥助」の項目を編集していました。
つまり、日本で「歴史」を教える大学准教授が、未発表の自身の論文を引用して英語版Wikipediaを編集→自作Wikipediaをもとに「ノンフィクション」として歴史小説を書く→書いた小説が、海外で「史実」と認識されてしまったということのようです。
【顔画像】トーマス・ロックリーは何者?Wiki風プロフィール
トーマス・ロックリーさんはどんな人なのでしょうか。プロフィールをまとめました。
- 名前:トーマス・ロックリー
- 英語表記:Thomas Lockley
- 生年月日:1978年
- 年齢:46歳ぐらい
- 出身:イギリス
- 職業:英語教育者、大学准教授、作家
- 著書:2017年『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』
トーマス・ロックリーさんは、2000年に来日。鳥取県鳥取市の小学校で2年間ALTをしていました。
2019年に日本大学法学部の准教授、ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)の客員研究員になっています。
トーマス・ロックリーさんの研究分野は言語学習ですが、日本やアジアの歴史に関する研究も行い、大学では歴史と英語の科目を担当しています。
イケメン!トーマス・ロックリーは鳥取のトム・クルーズ?
トーマス・ロックリーさんは、「tottoritom(トットリトム)」の名前で、Wikipediaの編集をしていたようです。
トーマス・ロックリーさんは、Wikipediaで「トットリトム」の項目を自ら作成。
ご丁寧に「トットリトムは、東京にある日本大学法学部の教員であるトーマス・ロックリーです。」と自己紹介しています。
トーマス・ロックリーは、イケメンであり、トム・クルーズに似ていると話題になっています。
トーマス・ロックリーのWikipedia改変部分
トーマス・ロックリーさんが改変した英語版Wikipediaの「弥助」の項目は以下の通りです。
トーマス・ロックリーの「弥助」改変部分
- 根拠はないが、弥助は、ポルトガル、アンゴラ、エチオピア出身
- 「世界ふしぎ発見」で弥助はマクア人と示唆されていたが、番組では結論を裏付ける証拠はなかった。弥助は、当時ポルトガル人と接触し始めたヤオ族の一員であった可能性(ヤオ介→弥助)がある。
- 弥助は、アジアの共通言語である古典中国語で意思疎通できた可能性は低い。日本語で会話していたのであろう。
- 弥助は、おそらくイエズス会宣教師のヴァリニャーノの召使、奴隷、ボディガード、あるいは年季奉公人として日本に来た。
- 弥助を見ようとした人の騒ぎを聞きつけた信長が、弥助に会いたがった。
- 弥助が実際に「黒人」であることに満足した信長は、弥助に好感を抱いた。
- 弥助は容姿端麗。信長は、弥助は普通の人の10人分の強さと賞賛。
- 弥助は信長とともに、安土城へ。
- 弥助は信長の側近で、信長の従者。
- 松平家忠は、信長に気に入られた弥助を見て「武器持ち」と称した。
- 当時の日本では、黒人は差別されておらず、むしろ尊敬さえされていた。
トーマス・ロックリーさんは、Wikipediaの「弥助」記事作成にあたり、多くの部分で自身の論文を引用していました。
また、後に「引用元」を、自身の論文から、実際に出版された自身の著書「信長と弥助:本能寺を生き延びた黒人侍」へ書き換えています。
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